対馬は、日本と大陸を結ぶ重要拠点

 対馬は、九州と朝鮮半島の間にあり、早くから交通の中継点の役割を果たしていました。面積約七〇九平方キロメートルで、本土四島(@本州、A北海道、B九州、C四国)、D択捉、E国後、F沖縄、G佐渡、H奄美に次ぐ広さを持つ、日本で十番目に大きい島です。対馬で最も古い遺跡は、約八八〇〇年前頃の縄文時代のもので、ここからは朝鮮由来の土器と九州産の石器が同時に出土しており、この頃から既に、対馬は朝鮮半島と九州の間を結んでいたことがわかります。

 対馬をはじめて記した歴史書は、西暦三世紀頃、三国時代の中国で書かれた『魏志倭人伝』です。倭国の一つ「対馬国」として記述されています。八世紀初めに成立した日本最初の歴史書である『古事記』や『日本書紀』には、「津島」や「対馬州、対馬島」として登場します。伊邪那美命(イザナミノミコト)が日本の国土をお生みになった「国生み」で、六番目に誕生して「大八嶋」の一つに数えられています。いわば日本誕生の時からの固有の領土なのです。
 その対馬には由緒のある古い神社が数多くあります。延長五年(九二七年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十である「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」は、日本最初の全国神社一覧で、三千百三十二座(社)の神社が記されています。その内、対馬の神社は二十九社を数えます。これは、九州十一カ国で最も多く(第二位は壱岐の二十四社、次いで筑前十九社)、九州全体(百九社)の三割弱を占める集中ぶりです。これは、対馬が日本と大陸を結ぶ重要拠点であって、この地に神々の守護があることを祈る思いが、ことのほか深く込められたからなのでしょう。この中には、海幸彦・山幸彦のお話でよく知られる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)とその妻となった豊玉姫命(とよたまひめのみこと)をお祭りした豊玉町の和多都美(わたつみ)神社など、今も島民や全国からの信仰を集めている神社も多いのです。

 また、日本書紀で三世紀頃に為されたと記述される神功皇后の「三韓征伐」では、皇后が率いる軍勢が出撃したという和珥津(わにのつ)とは対馬北端の鰐浦であるとされ、対馬各地に神功皇后にまつわる様々な伝承が語り伝えられています。
 実際に七世紀後半の百済滅亡まで日本は度々朝鮮半島に出兵しており、対馬がその根拠地であったことは、朝鮮の歴史書でも確認することができます。そして、西暦六六三年の白村江の戦いで敗れた後は、朝鮮式の山城・金田城(かなたのき)が築かれ、また防人や烽台が置かれるなど、日本防衛の最前線になりました。この国境を守る防人の食糧は、対馬では賄えないことから、大宰府政庁は博多から玄界灘を乗り越えて米を輸送していました。その任の途次海難事故で殉職した福岡県志賀島の漁民を悼んだ和歌が、万葉集に収められています。

 また、対馬は大陸との交通路、国境防衛の地というばかりでなく、日本最初に金銀が産出された地でもあります。西暦七〇一年に対馬から金が献上された朝廷はこれを慶び、日本最初の連続年号「大宝」を建てました。日本史の教科書に必ず出てくる「大宝律令」の「大宝」は対馬にちなんだ年号だったのです。また、銀の産出はそれよりも早く、西暦674年に朝廷に献上されたことが日本書紀に記されています。対馬の金山は早く廃れましたが、銀山は十二世紀に一端廃されるまで(江戸時代に再開)、日本の銀産出の重要拠点でした。
 最近の歴史研究で、日本最初のコインとされる「和同開珎」(西暦七〇八年につくられた銅銭)や「富本銭」(六八三年の銅銭)よりも古い「無文銀銭」(七世紀後半)の存在が注目されています。この頃、日本での銀の産出は対馬以外では無いことから、対馬の銀で日本最古のコインがつくられた可能性が高いとも言われています。
長崎県 対馬市議会議員 作元義文


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