古代から現代まで、対馬は防人の島

韓国は竹島より早く対馬領有を主張していた

 対馬は、朝鮮半島・大陸と近く、江戸時代の朝鮮通信使をはじめ、古くから交流が盛んでした。しかし、それは、外敵の侵略にさらされてきた歴史と背中合わせでもありました。
 日本と同盟関係にあった百済の滅亡と、白村江の大敗により、日本の勢力は朝鮮半島から完全に撤退し、対馬は外国勢力に直接相対する位置に置かれます。

 日本書紀に、白村江の戦いで捕虜となった大伴部博麻(「博麻」という名で大伴氏に仕える部民という意味)が、連行された唐の首都・長安で、日本侵攻計画が立てられていることを知り、自分を奴隷に売って仲間の帰国資金を作り、日本に危急を知らせたという事が記されています。三十年後帰国を果たした博麻に、持統天皇は勅を下して、その献身的な忠誠を賞されました。この勅に、日本史上初めて「愛国」という言葉が使われています。決して身分は高くない、一人の部民の身を捨ててもの国を思う心に、「愛国」の由来はあるのです。

 朝鮮・大陸の脅威に直面して設けられた防人は、諸国の防人が停止されたあとも、壱岐・対馬には引き続き置かれています。それが廃止されると、対馬ばかりでなく壱岐や北九州各地への新羅からの攻撃(入寇)が目立ってきます。八一一年には新羅海賊が対馬・佐須浦に来襲し島民を殺害する事件が起こります。九州各地は新羅海賊の襲撃にさらされ、八九四年には、海賊二千五百名が対馬に押し寄せます。このときは、対馬国守・文屋善友が郡司・士卒を糾合して迎え撃って撃退しました。この事件で、対馬の防人が一時復活するということもありました。
 新羅が滅んだ後も、今度は高麗の海賊が度々襲来し、一〇一九年には刀伊の入寇と呼ばれる来寇が起きます。これは、満州の女真族が九州各地を襲撃したものです。太宰権帥・藤原隆家によって撃退されますが、対馬でも島民約四百八十名が殺されたり連れ去られたりしたのです。
 この頃、国内では、地方の政治・治安が混乱して頻繁に内乱が起こっており、辺要の地の防衛にまで手がまわらなかったことが、度々の外国海賊襲来の背景にあるようです。
 「辺要」とは、都から遠い辺地ながら国防上の要衝という意味で、九二七年に完成した「延喜式(律令の施行細則)」で、陸奥、出羽、佐渡、隠岐、壱岐、対馬が「辺要」の地と定めらています。

 鎌倉時代の有名な元寇が、最初に来寇したのも対馬でした。文永十一(一二七四)年、数千の軍勢で小茂田浜に上陸した元軍を、対馬地頭代・宗資国はわずか八十騎余の軍勢で迎え撃ち、奮戦して大損害を与えますが、遂に全滅します。資国の遺体を祀った塚は、お首塚、お胴塚が、離れた場所に建てられています。島民も多くは殺され、捕えられた者も、手に紐を通されて元の軍船にくくりつけられるなど、「虜者は一人として害されざるもの無し」といわれる残虐非道な扱いを受けたのです。対馬や壱岐の方言に「オイザト(おやすみ)」「オイザトナー(さようなら)」があります。これは、対馬防衛協会の小松津代志氏などによれば「寝ていても聡く素早い動作を」という意味になるそうです。外国の侵略を受けたとき捕らえられないようにとの心構えを日々の挨拶として語り伝えてきたのでした。
 室町時代の倭寇は、その多くは実は朝鮮や中国の海賊が正体だと知られていますが、本物の日本の倭寇は、この元寇に対する報復という心情が根底にあったとも言われています。  宗資国らを祀る小茂田浜神社(厳原町)では、毎年の例祭で参道から元軍が上陸した浜まで甲冑装束などの武者行列で練り歩き、神職が元軍を打ち払うように西の海へ弓を引き弦を鳴らす「鳴弦の儀」を執り行い、武者行列が勝どきをあげて、資国らの奮戦を讃えています。
 近年、元にはもともと侵略の意図はなかったという説が出ていますが、元からの度々の使者は、博多周辺の地形を詳細に調査するなど上陸作戦に備えた軍事偵察の役目も担っていました。また、対馬では島民二人を拉致する事件も起こしています。決して、平和友好の態度でわが国に接してきたのではありません。
 その後も、応永の外寇(一四一九年)などを受けてきた対馬は、幕末には欧米列強の侵略に直面します。文久元(一八六一)年、ロシア軍艦が浅生湾に侵入し、艦隊の根拠地として湾内要地の租借を要求する事件が起きます。ロシア軍は島内各地に上陸し、島民二人を殺害するなどの事件を起こします。このとき、日本にはロシア艦を追い払う力が無く、幕府はイギリスに依頼してロシアを退去させるありさまでした。イギリスはロシアが退去しない場合は、対抗して対馬を占領する意図があったことが知られています。対馬は欧米の植民地にされる目前だったのです。

 明治時代、対馬は、日本の近代化・海外発展に伴って、国防の最前線、海軍の根拠地、大陸との交通の要点といった役割を担い、警備隊が置かれ、巨砲を備えた要塞が設置され、海軍の基地が設けられました。明治三十二(一八九九)年には、海軍基地があって西に口を開く浅生湾から水路で東側に迅速に出動できるよう万関運河が開通されます。明治三十八(一九〇五)年の日露戦争・日本海海戦では、この万関運河を通って水雷艇艦隊が出撃し、夜間の奇襲攻撃に大活躍しています。この日本海海戦は、対馬海峡の東水道(壱岐との間)を通過したロシア・バルチック艦隊を東郷平八郎率いる日本連合艦隊が迎撃し、二日間の戦闘で壊滅させた戦いです。このとき、戦場となった海域周辺の対馬をはじめ九州・山口の沿岸には、彼我両軍の砲声が殷々と響いてきたのでした。なお、日本海海戦は、国際的には「対馬海戦」と呼ばれているそうです。

長崎県 対馬市議会議員 糸瀬 一彦


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